小説 中江藤樹{上} 童門 冬二著 学陽書房 読書期間:03-2-12〜2-25

この本を読んだ全体の感想は「神様はその人の希望通りの人間になるように全てを導いてくださる」 ということだ。与右衛門の父、吉次は自身がなりたかった「処士」への 夢を子供の中江与右衛門(藤樹)がなることを期待した。与右衛門が9歳の時、琵琶湖畔の近江からお祖父さんの住む米子に両親と別れて移った。その時父が「与右衛門、日本にはないが、中国には処士という人々がいたそうだ」 ということを一言だけ言って別れた。その時は何も分からなかった与右衛門は米子で 「処士」への道が開ける。「処士」とは「土地や家などある程度の財産を持っていて、生活にそれ ほど困らずに、自分が学んだ学説を世の中に説いて回る人」ということである。
当時は徳川幕府が戦国時代を終結させ、戦国の世には我が世の春を謳歌した武士達に対し、平和な社会の中で どのように生きるかという道が重要であり、また重大な社会問題でもあった。徳川家康は武士の体質改 善のために「元和偃武」(げんなえんぶ)を宣言した。これは武器を倉庫にしまって二度と出さないということである。この代わりに朱子学を奨励し、「新しい日本の政治と社会体制を固める上で、大きな指針となる」ものと考えた。
与右衛門の祖父、徳左衛門が碌を食む米子、加藤藩は藩主、加藤貞泰から「大御所様は馬上天下をお取りにな ったが、これからは文をもってこの国をお治めになる」と言って藩内の武士達に学問を奨励した。徳左衛門は典型的な武士であり武術は優れているが学問は苦手で、これを孫の与右衛門にやらせようという魂胆であった。与右衛門はこの期待に大きく応えた。 学問に興味を示す与右衛門は城で中村長右衛門に師事した。ここで「庭訓往来」(手紙の模範文集)と「貞永式目」(鎌倉幕府以来の判例や慣習法)の教科書を使って文字やモノの考え方、文書の書き方を学んだ。見る見る内に頭角を現し、代官としての祖父の文書は全て与右衛門が作成した。地元では豆代官と呼ばれるほどになった。
加藤藩が米子から大洲に藩替えとなり、同行する与右衛門が師と別離をすることになる。この時、長右衛門師から独学のために教科書として四書(大学、中庸、論語、孟子)五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)の中から大学をもらった。1,753字で文字の種類が394字である。「おぬしは聖人の道を歩め。それがおぬしなりの新しい武士に生まれ変わる近道だ」と言われ、その言葉が昔父から言われた「処士」とが結びつき「処士と聖人」が何時か自分が到達する存在という思いに至った。大学の書に「古之欲明明徳於天下者、先治其国。欲治其国者、先齊其家。欲齊其家者、先修其身。欲修其身者、先正其心。欲先正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物」。という一文がある。これは「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉う。その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。知を致すは物に格に在り」ということで、この点に与右衛門は心の底から感動した。新任の地においても新しい師が居た。
処士になる夢を抱いて五経を熟知していた須トだ。彼は水軍部隊の指導者であったが、戦いが無くなったために陸にあがって大洲の地で桃源郷つくりを始めた。未だ収穫が少ないので代官の検地を免れていた。与右衛門はこの須トから須トの家に出かけて行って五経についての教えを受け、ここで大きく成長することが出来た。与右衛門の祖父は家老からの命令もあって須トが支配する地域の検地に出かけた。与右衛門も同行した。須トに言いがかりをつけた祖父は須トを斬ってしまった。与右衛門の心は真っ暗になった。身内が吾が師を斬った・・・
与右衛門も自ら学ぶと共に新たに子弟もできた。
ここまでが上巻の中身である。現代社会においては何かを志せばそれを実現する道が色々な形で備わっているといえる。ここでいう「処士」を目指したいと思えばそれなりの勉強の場が準備されている。しかし今から400年近くも前の時代において父の言った一言が与右衛門の頭の中に残り、学ぶ努力をしているうちに、「処士」になるための環境が整い、師が現れ目的を達成することが出来たのだ。何と素晴らしいことであろうか。これは、人の力によるものではなく、神の大いなる御力によるものとしか考えられない。
こんな時代にも聖書の御言葉が通用したんだ・・・


マタイによる福音書7章7節〜8節より
求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。
   

 

    小説 中江藤樹{下} 童門 冬二著 学陽書房 読書期間:03-2-26〜3-25

子供の頃母親からよく聞かされた話がこの中江藤樹である。母の話では彼は子供の頃、奉公か何かで遠国で暮らしていたが、母の面影が忘れられずに雪の中をはるばる我が家に帰宅した 。大喜びしてくれるものとばかり思っていた彼に対し、理由を聞いた母親は生活の 糧として一生懸命織っていた布を引き裂いて無言の帰還命令を出した・・・・・。「どんなに寂しくとも、どんなに苦しくとも志を立てたらそれを果たすまでは挫折したらいけないんだよ」ということを耳にタコが出来るくらい聞かされた。そんなに良い話を沢山聞いた私も今はごく普通のシニアになってしまった・・・・
本を読んでみてそんな下りは何処にも無かった。でも、新しい発見や得るものが沢山あった。
大洲藩で武士に学問を教えることになった中江与右衛門(藤樹)は学問の基本として武士達に”明徳を明らかにすること”を求めた。この重要な要素の一つが親に対する”孝”であった。教える我が身が親から遠く離れて”孝”も実践できずにいたのでは、弟子達に示しがつかない、と考えて13年ぶりに近江に帰省して母に大洲行くことを求めた。母は固辞した。傷心の 与右衛門にさらに追い討ちをかけたのが藩主が江戸から連れてきた若山道四郎の存在であった。若山道四郎は徳川家康のブレーンであった林羅山の教え子で朱子学を学んだ。元々林羅山は朱子学によって「日本の武士を、君、君足らずとも、臣、臣足れ」という、聞き分けの良い武士に変質させようという背景があった。与右衛門が近江に帰省している間に若山道四郎が代講を勤めて与右衛門の教えとは異なる、主に”武士の処世術”ともいうべき講義を行った。与右衛門が帰藩後若山との対立が表面化して藩主、加藤泰興の知る所となった。”圭角の人”与右衛門の戦いの相手は若山を飛び越えて林羅山に向かうに至った。23歳の時に「安昌玄同を弑するの論について」を書き上げ、林羅山に戦いを挑もうとした。家老、大橋作右衛門の制止により事は収まったが、その頃から大洲藩の武士を退職し、故郷で処士になることを考え始めた。寛永9年(1632年)与右衛門は大洲藩武士の辞職を願い出た。以降2年弱に渡り家老、藩主に握りつぶされ、最後に執った行動は脱藩であった。「犯した罪は潔く受ける」という考えのもとに、寛永11年10月末に密かに大洲城下を離れ、京都の友人宅で討手を待った。後に残った家老や多くの与右衛門ファンが藩主に必死で掛け合い追っ手は差し向けずに不問に付すことになった。矢張り何事にも必死に生きる人間には神の大いなる救いの御手が差し伸べるのであろう。

近江に帰郷した与右衛門は早速処士としての生活を始めた。弟子が現れた。義弟の甚之丞、馬方の又左衛門、その仲間の与六、七兵衛、漁師の加兵衛などである。弟子達の生活に密着した教材を選んだ。例えば”厩火事”という話である。又左衛門が馬方であったためである。論語の中にある話で、「厩焼けたり。子(孔子)朝(役所)より退きて曰く、人を傷えりやと。馬を問わず」。孔子の家で厩が焼けてしまった。役所から戻ってきた孔子が家人に馬のことは触れずに、「誰も怪我はしなかったか?」と聞いた下りについて、孔子が如何に人間思いかということを語った話を教材にして、又左衛門達の考え方と話の本質とを比較しながら学ぶ方式を採用した。この学びは与右衛門に対しては、圭角の人といわれた人間性から角が取れて円熟した人間像を形成するのに役に立った。弟子の又左衛門や加兵衛などにとっては、それまでの人生観を一変させるほどの、幼稚ではあるが聖人としての生き方を実践することになった。与右衛門の持論は「時・処・位」を重視した物事の考え方をするということであった。今でいうT・P・Oを考えなさいということで、一つの事象に対する対応方法は「時・処・位」によって解が異なる場合があるというものだ。庶民を対象とした新しい塾は近在はおろか、遠く大洲の藩士にも名を轟かせて昔の弟子達が代わる代わる近江にやってきて学びの輪に入った。

与右衛門の教えの基本は”明徳を明らかにする”ということであった。明徳を明らかにするためには、夫々の立場で職業によく励むこと、父母に対する孝を第一に心がけること、心の鏡が曇らないように”私心”を起こさないこと、などを実践することであると説いた。弟子達は師に喜ばれるべく彼らの考える明徳を実践した。

”圭角の人”と言われた与右衛門がどうしてここまで変質できたのであろうか?。また弟子たちが与右衛門によってどうして人生観を180°も変えることが出来たのであろうか。私は”大いなる愛”が全てであった、と言えると思う。この愛は持って生まれたものというよりも厳しい勉学の中から生まれたものと言えるのであろうか。この本 の本質は聖書の中に全てあるような気がした。


第一コリント13章4節
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
怒らず、人のした悪を求めず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
全てを我慢し、全てを信じ、全てを期待し、全てを耐え忍びます。

                                                                       以上

 

   

   

この子を残して 永井 隆著 中央出版社 読書期間:03-3-26〜4-8

今年(2003年)2月九州を駆け足旅行した。この中で 美人のバスガイドの 岩本 明美さんがバスの中で語ってくれたこの本のことが忘れられずにいた。漸く読むことが出来た。感謝。子を思う親の心としてこれ程私の心を打った本というか、話は初めてであった。

長崎で幸せな4人家族が静かに暮らしていた。夫と妻、それに二人の子供の兄と妹。運命のあの日、あの瞬間、長崎大学病院で規定量以上の放射線を毎日のように浴びながら研究に励んでおり、このために慢性の原始病に罹っていた放射線研究者、永井博士は急性原子病が加わり、予定より早く廃人同様になってしまった。最愛の妻も失った。二人の子供達は奇跡的に3日前に祖母の住む山の方に行っていたので無傷であった。子供以外全てのものを失った永井博士は十数年蓄積してきた貴重な研究資料も失い、地獄に突き落とされたような絶望を抱いた。しかし半日後 には新たな素晴らしい希望を発見することが出来た。それは目の前というか、自分自身に現れた世界で最初の病気、原子爆弾症の研究を開始することであった。 それから約一年、おびただしい原子爆弾症患者の治療に励んだ。しかし身体を動かすことが出来たのはそこまでであった。
病臥に付した永井博士は畳二枚の小さな小さな家で子供二人との生活が始まった。博士がうとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきた娘のカヤノが冷たいほほを博士のほほにくっつけ、しばらくしてから、「ああ、・・・・・お父さんのにおい・・・・・」と言った。さらに眠ったふりを続けていると、カヤノは落ち着いて、ほほをくっつけている。ほほは段々温かくなった。何か人に知られたくない小さな宝物をこっそり楽しむようにカヤノは小声で「お父さん」と言った。それは博士を呼んでいるのではなく、この子の小さな胸におしこめられていた思いがかすかに漏れたのであった。
小学校に入学する直前の少女の何という清潔で麗しい姿であろうか。幼さと共に神々しさを感じさせる。博士は子供たちに神の道を歩むことを望んだ。”神の道を歩む”とはどういうことなのか、博士は分かり易くメッセージを伝えている。このメッセージが分かりやすくて説得力がある。

1.祈り
「聖書では祈ることが神の道に入る第一歩だという。主よ主よ、と口でとなえるばかり、自分では何もしないでは食う物も飲む物も与えられない。主に祈り求めつつ、御意の地上に行われるよう、神のみ国が来るように尽くしてこそ初めて与えられるのである。天に祈ることも必要。人事に尽くすこともまた必要。いずれの一方にかたよってもいけない。人事を尽くして天命を待つ、のではあるまい。神に祈りつつ人事を尽くすべきである。」このメッセージはとても説得力がある。私もこのような生き方を心がけたい。
2.神に甘える
全能の神に愛されるには甘えなさい。幼児が母に甘えるように甘えなさい。ということを先ず、二人の子供たちに教えている。甘えるということは神を全く愛し、全く信じ、全く頼っておらねば出来ないことで、神様にピッタリくっついて初めて甘えることが出来る。「すべての幼児のごとく神の国を承けざる人は、ついにこれに入らじ」ということである。なるほど、あんまり難しいことを考えるのではなく単純に神の愛を受け入れることが重要なんだ。
3.真っ直ぐ育って欲しい
生爪をはがした小指の気持ちを考えてみると面白い。爪がある時はなんともないが剥がれてしまうと一寸物が触ってもずきんと傷む。小指は触った物を恨む筋合いはない。またその物にも罪がない。小指にも落ち度がない。生爪が無くなったという災難の結果として一寸触るとずきんと痛む。小指は何物も恨まず、憎まず、ただ痛みを痛みとして堪えてゆくばかりである。他の健全な指を恨んだり、ねたんだり、どうして自分だけがこんな苦しみに会わなければならないのだろう、などと後ろ向きの考え方をしてはいけない。全て神様の処方なのだから、これをそのまま受け入れることが大切なのだ。二人の子供が両親がいなくなって色々な試練にあう時、その試練を素直に受けて欲しい。他のものに転嫁したり、恨んだり、道を踏み外さないで欲しいという親の切なる願いがこめられている。
4.へりくだり
息子、誠一の霊名は日本26聖人の中の一人からとってつけた。ヤコボ喜左衛門という。この人は慶長二年に長崎で殉教されたが、この人の一生を貫いたものはこの”へりくだり”の精神であった。「出しゃばるな、偉ぶるな、名を売るな、人気者になるな、世間を気にするな、いつも隠れて善いことをせよ!」神の言葉を忘れてはならない「すべてみずから高ぶるも人は下げられ、みずからへりくだる人は上げられるべし」。生まれた時からこのような親の明確な意思を示された息子は実に幸せであったといえるのではなかろうか。
5.気合い
全ての被造物は人間にサービスするために神から創られている。せっかく人間の利用するために用意されているものを、利用しないで放っておくのは、人間の怠慢だよ。許しがたい怠慢だよ。これを利用するために額に汗して働きなさい。でも、脳に汗することも忘れてはダメだ。石油や石炭は無尽蔵にある訳ではない。これに変わる新しいものを考えなさい。人間が人間らしい生活をするとは、この知恵と自由意志とを神の御意に従って正しく用いることだ。このためには汗をして働くという気合が必要だ。我が子に人間の本質を述べて神の下に気合を持って生きなさいと教えている。
6.科学者と宗教
「宗教は神に仕える人の道だね。神は真理だ。だから真理に仕えるのが宗教だともいえる。一方科学者は科学的方法をもって真理を探究している。つまり神から出るものを正しく見ようとしているのだ。宗教も科学も目標は同じ真理なのだ。二つは一つの方向を指している。二つは互いに反対するものではない。科学者が宗教を持つことは何の無理もない。それどころかまことの科学者は必ず正しい宗教を持っているはずだということが出来る。事実において近代の大科学者はたいてい正しい信者だった」。子供に宗教を持つことの大切さと同時に科学者としての道も問うている。素晴らしい。
 
ガイドの岩本さんから聞いた感動的な話がこの本を読むことによって、自分の今の生き方を見つめなおすという機会を与えてくれた。感謝。人生っていうのは至る所に自分を磨いてくれる宝物が落ちている。これを見つける目を普段から養わなくては・・・・・・岩本さん、本当に有難うございました。岩本さんは私の人生の師です。
   以上

 

   
         

   

風の盆恋歌 高橋 治著 新潮文庫 読書期間:03-12-1〜25

久しぶりに大人のメロドラマを読んだ。多分40年ぶりくらいであろう。この本は町内会の役員をされている長田さんが貸してくれたものである。長田さんは非常に多趣味な方で野球、秘湯巡り、その他何でもこなすが、この本のメインテーマである富山県婦負郡八尾町で毎年9月1日〜3日に催される”風の盆”という行事に毎年のように行かれている。そして昨年であろうか八尾でこの本の著者の高橋先生と出会って歓談されたとのことである。

”風の盆”というのは独特な音色を出す胡弓が加わった民謡の越中おわら節をのびやかに歌い、これに合わせて夜通し踊り続ける奥ゆかしくまた優雅な催しのようである。私はこのような感性に訴えるようなものは余り感動しない。多分右脳の発達が子供の頃から停止している故であろう。

この、”風の盆”が行われる地で学生時代に心の中で想いあった二人が50歳に手が届く年になってから、夫々の相手を忘れて八尾で落ち合うストーリーだ。

この本を読んでいて感じることは、著者は長田さんと同じく本当にこの風の盆を愛しているのであろう。文字の行間から胡弓の音と踊りが今にも飛び出してくるような錯覚にとらわれる。著者は多分この”風の盆”全体が人間の持つ純粋な心を取り戻し、純真な気持ちで人を愛することの喜びが秘んでいることを訴えたかったのであろうか。でも鈍感な私には良く分からない。ただ綺麗で優雅なんだなという感覚でしか捉えることができない。

右脳が発達している方は本当に羨ましい。

   以上