私の母、藤沢コウが85歳の今年3月まで、神奈川県葉山で一人で生活をしてきた。そして、突然の脳梗塞による入院生活が始まった。右腕も含め、右半身が殆ど機能しない状況から出発したリハビリの毎日の中で、見事に自身の自叙伝を書き上げた。周りには資料も何もない状況下で、自分の記憶力だけを頼りにこれだけのものを書き上げた。実に素晴らしいことと思い、ここにその全文を紹介させて頂きます。昭和の初めから終戦に至るまでの、庶民生活の実態を、垣間見る事が出来るのではないかと思います。入院以来、母にここまで指導していただいた、義兄の佐々木紀夫様、姉のカツ子様に心から感謝する次第です。

2000年(平成12年)12月20日 藤沢 康裕 記

 

八十有余年の生涯           藤沢 コウ

逗子・青木病院内にて、平成十二年八月二十三日より書く。

今年三月二十八日、軽い脳梗塞で入院する。一時は半身不随になり、字も書けなくなり、リハビリをして頂いて、五ヶ月経った。今日この頃、少しずつペンを取ることが出来、記す。パパ(義兄:佐々木紀夫氏)とママ(姉:カツ子)に言われて書く。

葉山村字眞名瀬一,〇八八番地にて矢島磯吉の五女として、大正三年七月八日生まれる。今にして思うに夏の熱い盛りのお産、母のハツは、さぞつらかった事と思う。この子が男の子だったらよかったのにと言われたそうだ。父は漁師をしていたと言われるが、よく覚えていない。でも、あぐらをかいてその中に抱かれていたことを覚えている。ぬくもりがあった。可愛がって貰った事は嬉しかった。消防の子頭をしていた事もあったとか。でも子供は、女の子ばかりで少しノイローゼ気味になっていたとのこと。私が八才の時に父が死に、その後は母の手一つで育てられた。

小学校入学は、母につれられ堀内の第二小学校へ行った。一年から三年までは、女の内野先生が担任だった。ある時、図画の宿題で姉の文さんに書いて貰ったのを出したら、よくかけているので分かってしまい、怒られた事があった。終業式の際に総代に出て賞状を頂き、家へ帰り母に見せると、男親がいなくても褒美を貰った事は嬉しいと、泣いて喜んでくれた。一年から五年までは、進学してから使う国語の本を頂いた。六年の卒業の時は、重い辞書だった。男生徒と私が頂いた。

高等科は、一色の第一小学校にあり一色と上山口、木古庭、下山口、長柄の同級生が一緒に勉強し、男生徒一組と女生徒一組だった。卒業の時はソロバンを頂き、二年の時は辞書を頂き、私は代表として送辞を読んだ。

一色へ通った頃は下駄履きで、お天気の時は五十分位の道を往復とも歩き、雨や風の日には馬車に乗って通った。一ヵ所寂しい所があり、北白川の宮様の竹垣のヤブあたりは、人さらいがいそうな所で、友達と走って通ったのを覚えている。

小さい時は家は冬、日当たりが悪かった。権現様の裏山が高いため、十一時過ぎでないと家には日が当たらず、近くの海岸へ日向ぼっこに行って遊んでいた。また浜へ出ておはじき貝を拾って遊び、潮の干いた時は、アサリ掘りやダテ貝を取って母の手助けをした。近所のおじさんが魚が釣れたからと言って持ってきてくれたこともあり嬉しかった。私が赤ん坊の時は姉の菊枝さんに子守りをして貰った事を覚えている。

菊枝姉は、母の養子であった。テフさん(長姉)の下に男が生まれたが早く死んでしまったため、母ハツがお乳が出て困っている時に、横須賀の坂倉の和菓子屋の娘であった子を頼まれて、養子にし育てたとの事。高等科を卒業してお嫁に行くまで居たとの事。菊枝さんは、高橋是清さん(当時の大蔵大臣)へ奉公に行っていたが、お供でイギリスのロンドンまで行ってきたとの事。毛糸のチョッキ等色々の物を送ってくれた由。

またテフ姉は、高等科を卒業してから森戸橋ぎわにあるかぎや旅館(今の海狼)に奉公に行き、そこで東大出の学生に見そめられた由。母が娘テフは、長女で田中(注・矢島家の屋号)を継ぐ人だからいけないと言って断ったとの事。既に姉には、いとこの光太郎さん(一色の大谷戸)と言って、親同士で決めていた男性がいて、二人は許婚のようにつき合っていた由。しかし、やがて光太郎さんが近衛の兵隊に出ている間に、大谷戸の兄(善さん)が田中へ行くよりも光太郎は田浦(の長浦)へ行った方がよいと、彼が留守の間に決めてしまったとの事。兵隊から帰って来た従兄光太郎さんは、くやしがって怒った由。一方、テフ姉については、長井から来た河合一徳さん(大学在学中)が田中へ婿として入った。

次女の姉ツヤはとても親孝行の娘だったとの事。学校を卒業してから東京へ奉公に出て、十八歳で亡くなったとの事。

三女の姉トクさんはトラックの運転手をしていた武藤愛造さんと結婚した。子供を女二人男二人もうけた。

四女のフミ()姉は、大谷戸のいとこで長浦へ嫁いだ鈴木ハナさんが世話して、逗子の桜山の石渡道夫さんと結婚した。姉が嫁ぐ時は眞名瀬の家で、私がお琴を弾いてはなむけにした。石渡家よりお赤飯が、ハンボの樽で届き、母を始め一同びっくりしたことを覚えている。姉が家を出発したあと、私たちは追っかけて行った。

フミ姉は両親のいる大百姓へ嫁いで、四人の子供(男二人と双子の女二人)にも恵まれ幸せだったが、主人(道夫さん)が早死にしたので、その後は苦労の連続であったようである。彼女は、子育てが終わりそれぞれを結婚させ、両親も見送り、ほっと一息ついたあと、私たち姉妹四人を温泉へ連れて行ってくれた。また私の主人も温泉へ連れて行って貰った事があった。それから両親が居た頃は、よく野菜を持ってきてくれた。

また、フミ姉の長男(琢馬さん)が結婚してからも、未だに春にはジャガイモ、玉葱その他手作りの野菜等、暮れにはねぎ、里芋、人参、ごぼう、白菜、豆までお正月に使う品々を届けてくれて、嬉しく思っている。ありがたい事です。琢馬さんの弟(幸彦さん)は、フミ姉の夫・道夫さんの弟である繁一さん(逗子市田越橋際に住む)に子供がないため養子に入った。つまり、おじさんの家(自転車業)へ行った。フミ姉の女の子(豊子、富子さん)二人はすくすく育ったが、戦後の不自由な時代にめぐり合わせたため、着せるものに困って、カツ子(私の娘)の着古しを分けたりした事もあった。あの頃は、お互いにつらい思いをした。でも姉フミの四人の子供もそれぞれ家庭をもち幸せになり、現在に至っている。

妹エツさんは、一色の(屋号:おとえむ)守屋豊治郎さん(次男)と結婚し、四人の子供に恵まれ、幸せな家庭を築いている。逗子に住んでいて、男三人女一人(雅司、晴司、隆司、和歌子さん)のお子さん方がおられる。

幼い時の私は、身体が弱く母に心配をかけた。小学五年生頃からお琴の先生(河村波子)の家へ泊まりに行って勉強も教えて頂いた。中国の論語、英語も学んだ(少しばかりだが…)。夕飯を先生と一緒に頂き、お琴まで教えて頂いてその上、月に一円頂いた。葉山女学校(葉山小学校に隣接)を卒業するまで続き、学校が終わると内弟子に入りお琴を一生懸命習ったが、身体が具合悪くなり、先生も東京へ引き上げるとの事で中止した。その後はしばらく家で静養した。

お琴の先生の許にいた頃、国文学者の北村先生ご夫妻(「おとうきゅう」という会を開き自宅でお話をした)が、女中さん(千代子さん)を使い堀内(現在の高梨豆腐店辺りにあった大きな借家)に住んでいられた。よく波子先生(森戸に家を建てて住んでいた)のお手紙を私は、北村先生宅へ持参した。波子先生は森戸に家を建てて、一人で住んでおられた。ある時、波子先生は北村先生の女中さんの歌をつくられた。

「ほほえみて働きたまふ千代子さん

内君の徳(注)高きみしるし」 (注)北村先生の徳を讃えた。

それを私が届けたが、そのお返しに「くれ竹の」と私の事を和歌でよんで下さった。

「くれ竹のふしをたがえぬおこうさん(注)庭の教えの尊とかりけり」

(注):お幸さん。藤沢コウ。

また、たまには、堀内に「よろづ」と言う風呂屋があり波子先生のお供をして行ったこともあった。なお、北村先生宅の近くにあった「角七(屋号)」の部屋を借りて琴のおさらい会をした。波子先生は時間の厳しい方でした。寒げいこで、先生が三味線をひき私が琴をひいて合奏をした事もあった。また、女学校の学芸会の折、音楽の先生のピアノと私のお琴で合奏した事もあった。それから高等科を卒業した冬休みに、堀田先生(葉山尋常小学校高等科(一年〜二年)の先生。(二年の時の受け持ち))の鎌倉のお家へ手伝いに行った事もあった(二日ほどだった)。

私は身体も元気になり橋本家へ奉公に行った。白美液の化粧品販売と競馬の馬主であるお屋敷が橋本家であった。堀内にあり、五年間奉仕したあと、私は結婚をした。

武藤愛造さんの世話であり、主人精三は横須賀より葉山へ来た。昭和十一年十一月十日、当日は鈴木光太郎、鈴木ハナ、石渡市太郎、矢島テフ、媒酌人武藤愛造さんたちと姉トク、母、主人と私が一色の高松宮様の近くで開店をしている魚吉に揃った。魚吉の料理で、お酌のおばさんも手伝って賑やかだった。いとこや市太郎、武藤さんたちが唄い出し、踊りまで出て、それはそれは大へん楽しく祝って貰った。母も非常に喜んでくれた。

私は小さい時に父に死に別れたせいか、主人は年がはなれているので、父親のような感じであった。当日は島田に結ってもらい、江戸褄を着てトク姉につれられ森戸神社まで往復歩いてお参りに行った。新婚生活時代は、未だ水道がなく井戸水を一軒おいた隣の井戸から汲んで運ぶ始末だった。御飯も台所の外で、薪をもやして炊く有様だった。しかし、主人が来てくれてから家をだんだんと改造してくれて、漸く人並みの生活が出来るようになった。それまで薪とりなどした事もなかった私なので、つくづくと今までの親の有難さや、主人の有難さを、身にしみて感じたのであった。

母が、眞名瀬より木ノ下の家へ来た時には、世間の風あたりも強く、「一つ山越しゃ他国の星が凍りつくよな風が吹く」と歌の文句を実感したと言い、お前も「しっかりとやってくれ」と言った母の言葉が忘れられない。つわりを初めて経験し、つらい思いもした。夏の暑い日、泳ぎに行って叱られた事もあった。しかし、気持ちよかった。五ヶ月の頃、次第にお腹も目立つようになり一人の子供を産むと言う事は大変なことだとしみじみ思った。けれども、これが女の仕事であると言われて、私も強くなろうとした。寒さが身にしむ何かと心せわしい年の瀬も過ぎて、昭和十三年一月一日出産。

主人も母も喜んでくれた。生まれるまでの身重の苦しみや悩み等、始めて味わう事ばかりだったが吹っ飛んだ。母は、嬉しさの余りふところに入れていた懐炉を、赤子のオムツと綿入れの胴着の上に置き温めたのであった。だが、泣き声がひどく何でこんなに泣くのかなと思ったら、懐炉が肌にふれたためやけどになってしまい、母と産婆のトク姉と二人は、しばらく私には隠していた。私が寝ていて知らなかったことだが、やけどはどんなに痛くつらかった事だろうと思う。ごめんね。でも、「かたわ」にならずひっつれで済んで安心した。主人には怒られたが、どうすることもできなかった。

また十ヶ月過ぎた頃、背負って母とお寺に行った時、本堂でお経をあげている際、ひきつけてしまい、母が水を含み顔にふきかけ、急いで森戸の田代病院に行き手当てをして頂いて、ようやく落ち着いたことがあった。それ以降は順調に育ち、ハシカにもかかり心配したが、すくすくと育った。主人はとても可愛がり大事にした。子供を育てる事は、本当に大変なことだと思った。名前は日支(支那事変)戦争が始まり、勝つようにと、「カツ子」と母がつけた。

四年後に息子(康裕)が生まれ、武藤一家が満洲へ行っていたため半沢産婆に取り上げて貰った。その日に地主の角田佐一さん(おじいさん)がなくなり、母はてんてこ舞いの忙しさだった。折りしも大東亜戦争が始まった翌年、昭和十七年二月二十一日で気ぜわしい時であった。娘の時はよく写真をとって貰ったが、息子の時はフィルムも手に入らず、撮れなくなってしまい、小さな頃の写真は余りないのが残念である。

私が入院して六ヶ月目に入った本日は、平成十二年九月一日である。九月一日といえば私が小学三年の昼頃、関東大地震があったことを思い出す。家では、高橋是清さんの別館が建つので、東京の大工に座敷を貸していた。津波が来ると言うので急いで権現様の方へ逃げた。後を振り向くとすごい勢いで波がゴーッと押しよせて驚いた。まごまごしていたら、もう少しでさらわれる所であった。山へ逃げたら今度は、山津波が来るという「デマ」がとび落ち着けなかった。野宿することになった。光徳寺の下の竹やぶへ布団や蚊帳等を運び、近所の人も大勢集まった。テフ姉の長女(磯子さん)が八月十四日に生まれていたので、私は手伝いに行ったりして大忙がしだった。私の家は、二段石段を上がった上にあったが、二段すれすれの所まで津波が来た。前の家は、水浸しで荷物を預かるやら大さわぎ。母だけは、人様の荷物を預かっているからと一人で家に頑張った。二日程の野宿であったが、怖かった。森戸橋際のかぎや旅館の道路は、キレツが出来て橋を渡ることができず、中の畑のある淋しい道路を通って通学したこともあった。

子供の頃は、道路へ出ると目の前には広々としたおだやかなきれいな海があり、沖には名島もあり、右には江ノ島や後には丹沢伊豆連山あり、中央に雄大な富士山も見え、まるで絵のような景色をながめて過した。それが当たり前の光景と思っていた。だが、木ノ下へ移ってからは、目の前に海も富士山も見ることが出来なくなった。同じ葉山に住んでいても、ふるさと眞名瀬の景観はなつかしい。あそこは夕焼けが美しかった。お天気のよい時は、大島も見えた。でも、昔の年より達が殆んどいなくなって淋しい。近くには宮城道夫氏(生田流琴の大家)のお住まいもあった。

その昔、私が生まれない時のことで母から聞いた話だが、母ハツの姉(コウ)は一色の大谷戸行谷へ嫁ぎ、母の兄二人は、漁師で網元をしていて景気が良かったとのことである。弟の方は分家するために、森戸に家も買ってあったと言う。兄と弟は共に遠くまで漁に出かけ、今で言う台風に合い、仲間の人も乗っていたが、皆船もろ共死んだ。母が、二人の兄の骨を拾いに九十九里浜まで行ったとか。二人の兄が無事に帰ってきていたら、田中の家は「蔵」が建つと評判だったとの事。

兄には生前、久八(屋号)より矢島カンさんが嫁に来ていた。それまでは、母も寺子屋の学校へ行っていたのが、カンおばが田中の家に入ったため、学校もやめさせられたので、「あきめくらで悲しい」と、母はよくこぼしていた。それ故、子供には人なみの勉強をさせたいと苦労したとの事。それ故、私と妹たちは女学校まで上げさせて貰った。有難い事だった。また田中を継ぐ者がないので、母のところにカンおばの末弟(磯吉さん)が婿に入った。

そして母の子が女子ばかりなので、長女テフにムコ(一徳さん)をむかえた。義兄一徳さんも田中をもり上げようと骨をおってくれた。タクシーのはしりで今の相模屋(酒醤油類販売店)の前の所で一円タクシーを始めた。フォードの車でとても繁盛したとの事。母も資金を助けたとの事。義兄(一徳さん)は三浦の長井から来た。父親は士族で戦死されたとの事。彼の母親の実家は長井らしく米屋をしていた由。長兄と一徳、弟二人も育てられたとの事。

はっきりは解らないが母が、長井の岸万冶郎家へ金を貸していた由。利息とかの代わりに米の俵が玄関の土間に積んであったのを覚えている。また岸家の子供で勝也さんが遊びに来ていた。勉強を教えて貰った事もある。彼は後に葉山の小学校の先生になられた。

私の実家にあった大黒柱は、立派だった。檜の太い柱だった。そのまわりで文姉と棒を持って追っかけっこをし合っておこられた事を覚えている。お正月の十四日になると、木の枝にだん子を丸めて枝にさし、大黒柱に結わえ飾ったものだった。まるでお花が咲いたようであった。また庭の隅に九尺二間の小さな借家が建ち、そこに新婚さんが住み、何年か経った後、自分達の家を建て巣立って行かれた事もあった。田中は落ちぶれたが、借家用の小さな家に入った人たちは、良い家庭を作られた。また権現様のお祭りには芝居がかかり、その役者の宿に、座敷を貸した事もあった。(花十郎一座の人たちだった)

畑もあって一生懸命、母は働いた。一色の大谷戸の畑も買い取って、野菜などを作っていたとの事。実家の母屋の方には、下宿人を置き、葉山署に勤務の岩井武氏が寝泊りしていた。やがてテフさんの長女の磯子さんと結婚し、幸せな家庭を築き、田中のため、兄のためにも色々と助言してくれた由。やがて太平洋戦争がはげしくなり、相模湾より艦砲射撃を受けたら一たまりもないとの兄の考えで、家を手放してしまった。姉(テフ)一家は、岩井氏の実家の長野県小諸へ疎開した。兄だけは葉山に残り転々として、木ノ下の家にも住んでいた事もあった。実家の土地だけは残っていたが、私が子供の頃すごした家がなくなって、とても淋しかった。

私が六才の時、木古庭のお瀧の不動様へお参りに母に連れられて行き、往復歩かせられた。途中のどがかわくと道ばたのすかんぽの枝を折って皮をむき、汁を水代わりにしゃぶった。大きな囲炉裏があって、頭の白いイチ祖母がたきぎを赤々と燃やしていた姿も覚えている。兄(一徳)がタクシーの仕事をしていた頃、彼はクサブキの屋根を瓦にふきかえ、家の建具も取り替えて帯戸だったしきりも替え、きれいに造作をしてくれた。母が家の向きを南向きに変えて欲しい頼んだが、それは出来なかった。西向きのままだが、風呂は五エ門釜にしてくれ、皆喜んだ。私は小学生の頃、兄に連れられ横浜の伊勢佐木町へ行ってオーバーを買って貰った事もあった。嬉しかった。

アメリカから青い目の人形が葉山町に送られて、私は小学校の生徒を代表して頂きに横浜へ行った事もあった。可愛らしいお人形であった。また子供の頃、お正月には漁港の船からみかんを投げあった。あるいは夜のひと時、一銭駄菓子屋のお店で集まり、双六、イロハカルタ、家族合わせ等で遊び、三角袋入りの南京豆を食べながら仲良く過した事もあった。

森戸神社境内の横に、ベルツ博士の碑、昭和天皇の碑、堀口大学氏の「花はいろ人は心」の碑等が海を背にして立っている。その除幕式は葉山の有志、町会の方々が出席して、陸上自衛隊の吹奏楽の音楽で盛大な式が行われた。婦人会の役員をしていた頃で、私も同席した。神社境内にある源頼朝の碑は、子爵金子堅太郎氏の謹書である。碑の裏には、伊勢神宮の二十年ごとの御遷宮の時、お参りに行った人達の名前が彫られている。母(ハツ)や河村先生の名前もあった。下へ降りると、右側には県の五十選の中に入った景勝「森戸の夕照」の碑も立っている。近くに石原裕次郎の碑もある。その沖には、兄石原慎太郎氏が建てた灯台も海に浮かんでいる。

初代の味の素社長鈴木三郎助氏は葉山の名誉町民の第一号で、高等科の時の講堂に大きな写真が飾られていた。また第二号が堀口大学氏である。御死去の際は、町葬となり葉山小学校の講堂で行われた。この講堂は、三郎助氏の寄付金との事。前の講堂も、三郎助氏の寄付との事。東伏見宮妃殿下が校庭をお歩きになられた事もあり、また学資を町へ寄付なされた由。そして多くの生徒が学資金のおかげで進学できたとの事。

私が高等科を卒業した以後、山の手の道路(134号線)国道が開通した。昭和4〜5年頃だと思う。御用邸までの道路を行啓道路とも言った。逗子と長柄の間に桜山トンネルが出来、更に浅間山の下を葉山トンネルが出来て開通し、便利になった。そして次第に車の数も増えて来た。私は戦争の脅威も、戦後の物資不足も体験した。戦争中は、バスが木炭車で走った事もあった。また子供に着せる服がなく、息子に娘のブラウスを着させて登校させたら、女のブラウスを着てると言われ、ヤッコヤッコとからかわれた事もあったそうである。私がうっかりと着せたのが悪かった。ごめんねー。

大谷戸の行谷家から長芋を掘ったのを貰い、母が一生懸命すってすり鉢でゴロゴロあたって、トロロ汁を作って貰ったのが美味しくて、何杯もお代わりしたのを覚えている。山口のイトコが竹の子、フキをかごで背負い、持参してくれた事もあった。浜では、船が岸へ着くと大漁のいわしを売ってくれた。バケツ一杯が五銭か十銭だったと思う。母は煮たり焼いたり、また骨を取ってすり身にして揚げたり煮たり、色々に調理して食べさせてくれた。また、保存食用に作った「是はうまい」という商品のふりかけを、こしらえる手伝いもした。また、磯へ行ってニシ玉貝を取り、ニシ汁(寒のニシ汁)をこしらえ、温かいご飯にかけて頂くと、特別うまいし、風邪の薬にもなった。

また、あさり掘りをしている人達のそばへ、昭和天皇が道路から浜へ下りていらっしゃって、「何をしているのですか」と尋ねられ、晩のおかずにアサリを掘っているとおばさんが答えられたという話もある。海に突き出た一角に細川力蔵氏の住まいがあり、目黒の雅叙苑を造られたとか。氏はその昔、風呂屋の三助さんをして努力したとの評判だった。夫人は宮内庁の女官をしていたとか。妹さんが女優の入江たか子さんとの事。雅叙苑が出来たての頃、河村先生に連れられて見に行ったこ事もある。

海狼の(かぎや旅館)の隣に、後藤新平氏のお住まいがあった。今は勧銀の寮になった。道路をへだてた山手の所には、山本権兵衛氏の邸もあった。お嬢様が素敵な方で、男装の麗人のようなすらっとした可愛らしい方でいらした。また、高橋是清邸へ、母はお手伝いに行っていた。菊枝姉も奉公していた。ある時姉妹五人、母に連れられて品子夫人にお目どおりが出来、嬉しかった。「ハツやはいいね、良い子供がいてしあわせだね」と言って夫人も喜んで下さった。是清様のお嬢様は大久保利通氏へ嫁がれた。お子息は利春氏で、丸紅に勤めておられた。丸紅事件で大さわぎになった事があった。磯子姉も大久保家へ、奉公に出たこともあった。道路沿いにある広いお邸で、前が海で平らな岩があり平磯と呼んでいた。是清氏がよく散歩をし、杖をついて歩かれたとの事。また、おめかけさんのお子さんがいらして、長女の方は歯科医(医学博士)に嫁がれ、きれいなお方だった。このご夫婦が全盛の時に、私もお手伝いに行ったことがあった。

文姉と妹は、嫁ぐまで子爵の金子堅太郎邸で奉公していた。大勢のお女中さんがいて、大変だったとの話を聞いた。時々は、浪曲師、落語家を招いては女中さんの家族を呼んで聞かせてくれたとの事で、母も喜んで聞きに行ったそうである。とてもよかったと、うれし泣きして喜んでいた事もあった。

服部金太郎さんが小さい時、寝小便をして困った時、波子先生のお兄様が面倒を見られたとか。氏は現在、東京銀座四丁目に時計店を開かれ、有名になっている。葉山にも別荘があった。また金子邸の隣には団琢馬氏のお邸があり、ご子息の伊久磨氏の実家があった秋谷にも別荘があるとか。音楽家として有名で、また朝日グラフの月刊誌に「パイプの煙」を書いておられた。

森戸神社境内のうしろの数々の碑の立っている先に砂浜があり、右には千貫松の大きな岩がある。そこから離れた所に小岩が点点とあって、丁度伊勢の二見ヶ浦の景色に似ていると言われている。これでしめ縄を張ったらもっとよく似るだろうと母が言っていた。神社の神官は、守屋清太郎神主で、息子が葉山の町長になり、次に田中富氏、そして次に息子の守屋大光氏が町長となって活躍している。初代の守屋氏は町長を辞めてから、京都の伏見稲荷へ行かれた。

左の砂浜は昔、源頼朝がお供を従えて遊ばれたとか。近くに、犬が腰を下ろしているような岩があり「ごてんヶ島」とか言っていた。この島が潮が満ちると海の中に浮かび、潮が引くと歩いてそばまで行くことができ、遊んだこともあった。森戸神社のお祭りは九月七日である。八日は本祭りである。八日の晩に余興がある。今年(平成十二年)は司会に日本放送のアナウンサー「今にてつお」氏が来葉され、賑やかになるとのことであるが、私は、入院中で行かれず残念である。

木ノ下へ来てからの事だが、台風の折大水が出て驚いた。川幅が狭かったのと家が低かったため、家の中に水が入りこわい思いをした。二回目は、床下まで入った。その時は、子供を戸棚の上の段にのせて難を逃れた。子供は水が入ってくるのが面白いのか喜んでいた。私は、一生懸命荷物を上へ上げるやら大忙しだった。水が上がる時はまたたくまに入り、引く時はサアッと引いたが、後が大変骨を折った。婦人会からおにぎりが配られ、桜山の琢馬さんやら知人が来て手伝って貰って助かった。

母はお世話するのが好きで、石渡市太郎氏の弟で横浜へ分家されたその長男の清氏と町会議員(矢島儀助氏)の次女と家で見合いをさせた。そして目出度く結ばれた。文姉も母と共に力になった。清氏は出征もなさったが帰られてから会社に入り、社長になりまた会長になって停年を迎えて退職して、幸せな家庭を築かれている。大へん模範的な家庭である。奥さんが「おばさんのおかげで私は幸せですこと」と言って喜んでいる。母と文姉が骨をおったのに、私にまでお礼を言われ、時おり逗子の京樽やクメ吉(元、そばの東屋)などへ行って昼食をご馳走して下さり、現在も続いている。

佐久間沖之助氏は最初の奥さんと別れた後、母が母の遠縁の娘(貞子さん)を紹介し、逗子銀映座の映画館でお見合いしまとまった。年が離れていたが、洋裁店を開いてよい家庭をつくられた。佐久間氏は奥さんのお母さんと弟さんの面倒も見られた。氏を町会議員にまで当選させ、氏が活躍して町のために働かれたのは、奥さんの内助の功が大きかったと思う。お国からの褒章を受けられて、宮中へ夫婦で参内したとの事。その時、始めて江戸褄をつくられ宮中へ行かれたそうである。なお奥さんは、俳句の先生やら詩吟の先生やら商工会のお役やらなさって、町の為に活躍していられる由。また火災保険会社へも勤めておられる。

また母が桜山の道夫氏の妹を世話するのに、秋谷の子安まで往復歩いて新倉家の次男を貰いに行ったと聞きました。その二人も結ばれた由。その時に母から聞いた言葉が「かごに乗る人かつぐ人、そのまたわらじを作る人」である。また田中の隣家の六兵衛家(漁師)の元の奥さんが亡くなられて、後妻(新倉としさん)を探し話がまとまり、母ハツが結納金を持って行ったら少ないと言われた由。親戚に結納金を披露するのに、それでは話が出来ないと言われて、金額を増やしてまた子安まで歩いて行ったと聞かされた。

眞名瀬からも町会議員が出るようになった。加藤林蔵、加藤弘(大亀)、小山泰治、鈴木定吉(六兵衛の分家した人の息子)。役場の助役に鈴木勘之氏。森戸からは守屋町長(大光)氏。なお、氏と鈴木勘之氏とは「いとこ」である。木ノ下からは田中富氏町長、松井隆議員。元町は小峰八太郎、斎藤市太郎、三ヶ浦は鈴木三千夫(現在は福祉協議会の会長)。小峰浅吉氏等。向原では奥井復太郎氏(慶応義塾の塾長を一期勤められたこともあった)。また佐久間氏は在職中大水が出た時、県へ申請し、川幅を広げたり大層骨をおってくれた。また田中町長氏は下水道を引いたり(家の前の路地)、地面が低いため上の道路の本管をわざわざ掘り下げて直したりして下さり、大へん助かった。それ以前は個人の土管で、川へ下りては長い竹でつついて掃除したりして、苦労した。

森戸神社にある碑の所には、明治天皇と昭憲皇太后の御製が刻み掘られた大きな碑も建っている。今上天皇(昭和天皇)即位五十年も並んで建っている。なお、一色山手のトーヨコスーパーの奥へ入った右側の小高い山が、大正公園である。その昔、武藤の姉トク、その子供栄子さん、寿々子さんなどが未だ子供の頃、母と登ったことがある。大正天皇がお馬で行かれた場所とか。また上山口に、しだれ桜の名所がある。これまた陛下のお手植えの桜で、満開の時は見事で大勢人が訪れるとの事。また隣組内には日本画家の大家鈴木竹粕氏のお住まいがある。現在は、一色の丘に山を入れて八百坪からの土地のところへ家を建て、活躍中。ご子息の家も邸内に建てられているとの事。ご子息は(金銀の彫刻師)、外国へ行って学ばれたとの事。

戦争はよその国でするものと思っていた。あっても神風が吹いて助けてくれるものと思い込んでいた。ところが本土をおそわれて、空襲の恐ろしさを始めて体験した。物資は少なく食料も配給制になり、衣類も切符制になってつらい思いをした。「欲しがりません勝つまでは」と言う標語まで出た。自給自足のため畑を作った。今の小学校前の京浜団地の所で、松林があり雑草が生い茂っていた所を開墾して畑を作り、食料の足しにするため働いた。人糞までかついだこともある。ただただ一生懸命働いた。また亀井戸橋より入った所にも、葉山太七様の土地を借りて畑を作った事もあった。

隣組の防空壕掘りも、勤労奉仕で行った。自分の庭の片隅にも掘った。ある時は、奥の利根山の山の上から背負い板で薪を背負い、下までおろす仕事をした。沢山は背負えないでいたら、若いのに少しばかりしか背負えないでと仲間の年寄りに言われ、無理をしたことがある。家に帰って母の顔を見たとたん、声を上げて泣いてしまった。時局が激しくなり人間魚雷の特攻隊のために、松の根っこ掘りまでして、油をとる奉仕に出たが、それは役に立たなかった。昭和二十年八月十五日、昭和天皇のラヂオ放送で終戦をむかえホッとしたが、日本が立ち直れるまで大変だった。物資は乏しいし、日常生活にもこと欠いた。戦争の恐ろしさを身にしみて感じた。

敗戦と同時に、主人精三の勤めていた横須賀海軍工廠は解散になり、また苦しい波が押しよせた。退職金もあと少し年数が足りないため支給されなかった。ヤミ物資が出回っても、買う事も出来ず困った。ある時、下山口に住む大新(屋号)沢木氏のご主人の紹介で、主人は武山にある日本の施設(名は忘れた)を米軍に接収された所へ勤める事になった。カーペンター(大工)としてであるが、始めは、言葉が分からず困ったとの事。ある時、日本の庭園を造ったら、とても喜んだそうである。兵隊さんに可愛がられ、色々な珍しいもの、コーヒーやチーズ、ドーナツ、バター等をご馳走して貰ったとの事。本国へ帰る兵隊と交替になる時も、書き置きがあって、新しく入ってきた兵隊さん達もよくしてくれたとの事。中でも女の将校のミスワイザー氏には、特別に厳しかったときもあったが、可愛がられたとの事。

葉山の大きな住まいの家は、外人に接収された。浜の川崎さんに入られた兵隊さんミスタースターキー氏は、時々美味しいシチューを造って届けて下さった。また、城戸さんのお住まいに入られた方は、クリスマスの晩には門口に立って讃美歌を唄って美しい声で聞かせて下さった。美味しいケーキも作って持参し、母を始め家中大喜びであった。また、武山の守衛(門番)が厳しい時でも、ジープに乗って来てドーナツ、チーズ、バター等を運んで頂いた事も再三あった。母は、精さん(主人精三のこと)のおかげで美味しいものが食べられて有難いと喜んでいた。

でも家だけで食べて、他人にはやってはいけないとアメリカ人に言われたが、母は外の娘にもやりたくてまず桜山の家にやったら、文姉のお舅の両親がとても喜んでくれた。しかし、絶対に内緒にしてもらった。また毛糸のチョッキ、パンツ等も頂いて助かった。クリスマスの夕方、子供が武山へ招待されたこともあり、楽しかったとの事。ある兵隊さんは、子供をトランクに入れてアメリカへ連れて行くと言れたとの事。本国へ帰られた兵隊さんからは、外米や衣類を送って頂いた事もある。内地では、まだまだ食料が不足していた折で助かった。

近所の人は、買出しに行くのに大わらわだった。家では主人のおかげで助かった。しかし、一回だけ米の買出しに山形まで連れて行って貰った事があった。ところが、汽車の中が騒々しくなり、持ち物の検査があるとの事でお米をかくすやら、なれた人はすばしこく上手にかくし、見つかった人は取り上げられガッカリしていた。私には始めての出来事ゆえ、何がなんだか分からなかった。物々交換で、浴衣やお百姓さんの必要な物を作って持って行って、その上お金を払った。本当に生きると言う事は大変な事だとつくづく思った。普段、母からお前は苦労知らずだと言われていたが、私は自分なりに苦しんでいるんだと思っていたが、やはり「井の中のかわず」だったなーと思った。娘が高校の時、師走の押しつまった晩、ビロードの生地でスカートを夜なべして作った事もあった。息子が高校を終わった頃、こんな貧乏の家に居るのはいやだと言ってリュックを背負って家を出て行った。一週間位不在だった。海か山へ行くと言って出て行った。主人が心配して心当たりを聞いたが分からず、警察へ捜索願を出して貰おうかとまで考えていた。ところがひょっこり帰って来て、何処にいたのか聞いたら、鎌倉の円覚寺で座禅をして来たと言い驚いた。親にも出来ない事をしたのだ。「私達も出来たら行ってみようね」と主人と話をしたが、未だに実現していない。子供に教えられた。中学からの反抗期、まして男の子はむずかしいと思った。身ぶるいした事もあった。子供を一人前に育てる事は、むづかしい事だとしみじみ思った。しかし座禅から帰ってからは随分変わったようだ。

  昭和三十三年娘が嫁ぐ。子供、女二人。昭和四十二年息子が結婚する。子供、男一人と女二人。それぞれ幸せに暮らしている。昭和五十九年二月十日、主人・精三を見送る。その後、老いの深まりを感じながらも、心を豊かにして老境の日々を送っている。

《老うらら 日あしものびて 

背ものびて 》コウ・作  

後書き・母は九月二十日逗子青木病院を退院し現在グリーンハウス逗子に入所中である。
追記(2003年3月)・その後2002年(平成14年)1月葉山清寿苑に入所し、充実した日々を送っている。感謝。