▲▽▲▽雑感について ▲▽▲▽   Akiko

  

2000年6月12日 月 雨  初めての山小屋(甲武信kobusi岳)

 6月10、11日(土、日)。2日間行程で、初めての山小屋泊を経験する。

 山梨県、塩山の近くの西沢渓谷から、甲武信岳を目指す。西沢小屋の手前、徳ちゃん新道を選び歩き始めた。曇り空の中、明日、雨という予報を心配しての出発だ。

1年に1回しか山に登らない私達夫婦にとって、1日目、5時間45分、2日目7時間25分、全長20.2キロという計画は、無謀に近い。その上、初めての山小屋泊と悪天候の予報が重なる。大丈夫と請合う夫の言葉に押されて昨夜の雨で濡れた路を登りはじめた。

薄暗い樹林を掻き分けて進む。登り始めから岩混じりの坂道が続く。30分ぐらい昇ると、3人の登山者が降りてきた。『奥さん、上はこんなもんではありませんよ、ガレ場の急坂ですから』と脅される。ガレ場てなんだろうと思いながら、(去年昇った瑞がき山の、切り立った岩登りを思い出し)急坂の岩登りがあるのだろうと想像する。下に落ちている折れた枝を拾い杖にした。、夫にも便利なので拾ってあげる。

岩混じりの上り坂が続く。暗い道をただ黙々と歩く厳しくなると、案内本に我慢して登ると書いてあったのを思い出し、我慢、我慢と登る。高度が上がってきたら、石楠花の木があり、細々と咲いている白、薄ピンク,濃いピンク、の花に出会うことができた。天上に近づくに従って色が透明感があって綺麗だ。

木賊山と標識があるところに辿り着く。ほんの少し日が感じられた。標高2468.6メタ−とある。又、案内板に甲武信小屋と矢印がついている。ここまで3時間半で登ってきた。後2時間と思って本を見ると、なんと、ここから、甲武信山荘まで15分と書いてあるではないか、もう着く寸前ということになる。

そこで楽しみにしていたラ−メンを作って食べることにした。感想はって、言葉では言い表せないほど美味しかった。もう直ぐ着くという安堵感でリラックスでき、『たいした事なかったね』と大きなことを、不遜にも言ってしまったりした。

山荘は、木で作られた古い建物だが、さすが、厳冬の厳しい気候を勝ち抜くだけあって、骨組みは確りできていた。徳さんと言う御主人が、暖かい握手で迎えてくれた。初めての経験を前に緊張気味の私達を、慣れた山の仲間は、何くれとなく世話をしてくれたり、教えてくれた本当に感謝している。

夜トイレに行く為にはライトが必要とのことに困っていると、そばの男の人が貸してくれた。夕方から、雨が降り始め、夜離れた外のトイレに行くことは至難の技と、水を飲むことを控えた。

19時から、ご主人が見せてくれた山の写真が何とも綺麗で真冬には、雪の花が咲くことを知らされた。19時から次の朝の4時半まで、寝られず不安な1夜を送った。

4時半朝食、10分で終わる。5時10分出発、でも、お弁当をもらうのを忘れて戻り、再出発5じ20分、雨は大降り傘をさしての目立つ出発だ。私はピンク、夫は黒、2400メ−タ−級の山を傘をさして登ったり降りたりする人は、私達夫婦のみである。

他の人たちは,雨具の装備は完全で晴れの時と同じように行動できる。だから雨は怖くないという。一番怖いのは風だという。確かにそうかも知れない。とにかく左手に傘、右手に木の杖、テニスウエア-、ウオ−キングシュウズと見事に異質な格好で7時25分行程を歩き始めた。

続き−−−−2000年7月30日(日) 

 黒とピンクの傘の出発。 第2部

 足元もおぼつかない程、ぬかるんだ道だ。視野には、後続の中年のカップルのみ、それも15分程で、分かれて行ってしまった。後は、私達だけで薄暗い道を不安な気持で歩きつづけた。長い坂道を下りると、笹平非難小屋に着いた。雨脚が強かったので、少し休むことにして、中に入ると単独行の若い女の人に会った。ちょっと水を飲む程度で、直ぐに女の人より先に出発した。

この後は、石畳のような急な上り坂だった。延々と続く登りに音を上げそうになると、この世のものとも思われぬほど透明感のある白に近いピンクの石楠に出会った。それは、雨の中水滴を花びらに受けて咲いていて、天上の花を連想させた。それで、苦労の末のご褒美と納得して又重い足を、持ち上げて西破風山を目指した。

こののぼり坂は、私に音を上げさせた。声に出して言う。『もういや、もういや』と、我慢の限界にきた時、天上が開け、空があった。 

着いた所は、西破風山だった。標高2317.7メ−タ−。ここから東破風山までは、石楠花の木のトンネルを通るが、少し早かったようで、花は疎らで、先ほどの石楠花に少し負けていた。

非難小屋からここまで、やはり誰にも会わず、不気味さが少しづつ募っていた。それなのに雁坂峠を目指す今、ますます緑は深く雨脚は強く足元はぬかるみ、心細さが足を速めていった。

『何だか熊が、出そうね』と不安が声を出させる。視界が開けるとほっとするが、そこは又違った意味で怖い場所だった。岩が突き出ていて雨のためにつるつる滑った。その上、1歩間違うとがけ下にすべり落ちそうな場所だった。通り道は岩の上のみ杖をもう1本の足にしてやっと通り抜けた。

露岩を抜けると鬱蒼と茂る樹林を緑とピンクの傘は、水滴を跳ね飛ばしながら進む。心の中は人一人居ない森の中へ迷い込んで行きそうな不安感で一杯だった。もう靴の中は雨で、ピシャピシャと音がし始め、ズボンも膝まで濡れてしまっている。心細くなった時に雁坂領に入ったことを知る。

そこから間もなく視野が開けた雁坂峠に着いた。雨は相変わらず強く振っていた。標識で西沢渓谷へ降りる道を見て怖気ずく。そこは道とは言えず、崖崩れの後のように、細かいぼろぼろの岩のかけらが巾広くあり、ただ転げ落ちる以外下りる方法はないように見えた。

思ったとうり転げ落ちる。その後はあめで、重くたれた熊笹のぬかるんだ道を延々と歩く。時々ある沢を足を石に取られたり、尻餅をついたりして渡りながら、4時間かけて西沢渓谷の村営の駐車場にやっとついた。

車の座席に座った時には心底ほっとした。帰途温泉に入って、雨で濡れた体を温め歩き通した満足感に慕った。追記するとこの温泉で笹平非難小屋で、会った単独行の若い女性に偶然会った。『又どこかで会うことがあるかもね。』と話す。

         了。       2000年8月19日 書き終える。


2000年2月17日 エッセイ  

嵐の夜の樫や杉の大木の唸り声は戦士の雄叫びの様に聞こえる。

 大きな枝葉を打ち鳴らし、ゴ−ゴ−と強風と豪雨に立ち向かう。木々の間を切り裂いて、すり抜けた風雨は、今度は雨戸に戦いを挑んでいく。今にも吹き飛ばされそうになりながら、撓む戸は悲鳴をあげる。

部屋の中では、不安に押しつぶされそうな心を抱え、幼児が体を一層小さくたたみ込んで耐えている。怖さに目を閉じると、音の世界をが心を押しつぶすのだ。息を詰め、間断なく押し寄せる唸り声を、ドキドキ打つ心臓の音と一緒に、やり過ごしているうちに、時が流れて戦いが終わる。

突然音のない空間が広がり、心を戦がせていた児も、安らかな眠りに入っていった。

嵐が去った朝、木々の下には無数の枝葉の残骸が、散らばり、微風が青臭い匂いを漂わせ、今や嵐の唸りは、川の増水した濁流に乗って矢のようにさっていった。

陽が昇り空気が暖まると小鳥がさえずり始め、追い立てられるように、人々は、片付けに走る。小川では増水で打ち上げられた、砂潜りや、どじょうが、畔でピシャピシャと尾をたたき、高く昇った陽射しの中で、子供達の歓声がこだまする。戦い疲れた木々も、枝を大きく張り直し、天に向かってさし伸ばし始めた。青い空だけが広がって、遮るものは鳥達の飛翔だけ。

地上では、雑多な音が入り混じり、自然の交響曲を奏でている。その中でも日暮れ時の一仕事に精をだす、大人たちのカマのサクサクという音やイナゴの飛び交う音が、夕闇を誘う。

空は茜色から、暗色に色を変え、昨夜の埋め合わせをするかのように、風ひとつなく星が煌いて、静かな夜があった。人々の穏やかな眠りと共に。

                                 了


新日本フィルハ−モニ−交響楽団 定期演奏会を聞く。 指揮者シモン.ゴ−ルドベルク  1月15日

 マ−ラ− : 亡き子をしのぶ歌。

説明では、自然の美しさを、子に先立たれた父親の絶望と対比させているとあったが、流れる曲の美しさに陶然とてしまった。音の織り成す情景が心を打つ。専門的なことは、何も分からないが、音による物語は美しく切なく流れていった.歌:福島明也 バリトン  

       : 交響曲第4番ト長調

         第4楽章の 天国の暮らし (天上の生) 歌:釜洞祐子

         ソプラノの音がこんなに温かみのある声だったのかと、思わぬ今日の贈り物に感謝!!感謝!!

        すばらしいひと時を、過ごすことが出来て本当に良かった。 

 


あきらめない人生の道   2000年1月11日 (火)  

とあるテレビの番組で「復活に賭ける選手たちの秘話」が放映された。その中で、競歩の板倉美紀さんの交通事故からの復活は私の心の根底を揺さぶり続けた。傷だらけの体を衆人の眼前にさらけ出しての練習。何度も痛みから歩くことも出来なくなる。それなのに彼女には、諦めと言う言葉はないのだ。痛み堪えながら競歩の練習をしている後姿に私は涙を抑えられなかった。

自分の人生を顧みて何と甘い日々を送ってきてしまったことかと、考えずにはいられない。人生の半ばを過ぎて彼女の姿から教えられた、目的に向かって走り抜けるすさまじいまでのエネルギ-の爆発を。私も頑張らなければならない。もう歳だからとか言い訳を言う人生からさようならをしたいと思う。生きている限りえエネルギ-を燃やしつづける人生を歩みたいと思う。

歩きつづける彼女の姿を忘れまい、そして心からいつも応援したいと思っている。


 

 テ−マ (20世紀) 代償  1999年12月14日(火)

 春を予感させる土の色、日暮れ時の雲の色の変化、寒風の中に高く咲くこぶしの花、挙げれば限りなく出てくる自然の姿。田舎に住んでいた私は自然から喜びを与えられ、満足しきって幼年期、少女期を過ごしてきた。10代の後半も機械文明の予感もなく、世界情勢にもまったく疎く、気付いた時は多摩丘陵にショベルカ−の爪あとが深くついていたのだ。驚きのうちに日々が過ぎていった。

 結婚をし、3人の子の親となった30代の半ばに、自然観察会と、保護を目的とする団体に入った。我が子にも自分と同じ喜びを感じてほしいと願う一方、現在の動、植物の状態を知りたいと考えていた。

 20年前の雑木林が目の前にあってほしいと思ったが、文明の便利さを甘受していた年月は、花束になるほど咲いていた紫のりんどうや、おみなえしの黄色の花を消し去っていた。開発をまぬがれた林は下刈りもされず放置され荒れはてていた。定期的に歩くうちに、丈が10センチ程のイチヤクソウの花を見つけたり、蕾の中に水滴をためているジイソブを発見したり、喜びもあったが保護するすべもなく絶滅に近い状態の植物も多くあった。その中でもカタクリの花との出会いは今でも忘れることは出来ない。

 それは、雑木林の北斜面一帯に湧き水の流れの両側に点在していた。林は静寂に満ち、漂う空気の冷たさが静けさ倍加させていた。カタクリは落ち葉の上に緑の葉を二枚ゆったりと広げ、首を傾けるように薄紫の花を咲かせていた。下向きから上に反転している花びらは、風にほのかに揺れはっとするほど愛らしく美しい。

 次ぐの年、訪れた時の驚きと悲しみ。目前に広がる盗掘された穴あな、踏みにじられた花びら、荒らされた林床はカタクリの怒りとうめきに満ちているように思えた。人の手による殺戮。

 欲望や文明の発達の代償に何と多くの大切なものを手渡し手しまったことか。、

19999年9月21日 (火) 下北沢と深大寺

朝、9時に京王線橋本駅で待ち合わせ、友達と2人でふらっとウオ−キングに出かけた。なんとなく下北沢の町を見ようということになり、電車に乗った。夢中でおしゃべりしている内にあっと言う間に明大前についてしまった。井の頭線に乗り換えて、下北沢の駅に降り立った時には10時をちょっと過ぎていた。

地図もなし、知識もなしの状態で降りたら、ロ−タリ−は無く、細い道が直ぐ町並みに続いていた。所々にある小さなお店は、さすがに高級品が並んでいる。お店は午前10時過ぎても開いてない数の方が多い。もしかしたら定休日なのかもと思いながら歩いて行くと、由緒ありげなお店がお煎餅を整然と並べて売っていた。

ウインドウ-に遮られた店構えが多い中、ガラス戸が開け放され、昔良くあった丸いガラスケ−スの中のお煎餅は、光り輝いているように見えた。長い年月守り通して来た伝統の輝きとでも言ったものが、目に見えない光となって輝かせているように思われた。

町の様子はまるで迷路のように入り組んでいて、家と家がひしめきあい、その間に緑の物が息継ぎのように植えられている。駅に戻ると中の通路は迷路のようで、直ぐ前に見えるホ−ムに辿り着くまで四苦八苦、登ったり降りたり2度も往復する始末だった。やはり田舎者と自戒する。

それで早々と町を退散、緑の多い深大寺に進路変更した。京王線の調布で下り、バスに乗り込だ時には台風の影響で雨が降り出してしまった。片道200円のバスの旅程終わる頃は大降りで、神代植物園のバス停は横殴りの雨のため屋根が在っても役にたた。オ−1た。

前方を見ると深大寺蕎麦という暖簾がゆれている。あそこしかないと2人の意見は一致、飛び込む。シンプルに深大寺蕎麦を頼んだ。食べてみると歯ごたえがあり汁は鰹だしが確りでていてとてもおいしかった。食べ終わっても雨は叩きつけるように降っていた。少し待ったが止む様子がないので帰ろうとしたら、お店の人が白いビニ−ルの傘を出してくれた。「返せないのですけれど」というと「良いですよ又来て下さい」といってくれた。それで早々と植物園も見ずに帰って

来た。あまりしまらない一日だったけれど気分はリラックスでき体も疲れず楽しい一日でした。お蕎麦やさんありがとう。

1999年7月30日 (金) 歯医者さんとカサブランカ

1週間前の23日(金)に歯医者さんに行った時、6号のインパチェンスの油絵を持って行った。今其の絵は診察室の壁に掛けてある。其の時に花や木が大好きな歯医者さんが帰りに下さったのがカサブランカ(百合の花)なのだ。大きな木も添えて。

早速、丈が1メ−トル半もある木の方は玄関前に傘たてに活け、葉が風にそよぐ様を楽しみ、カサブランカは家の中に飾りました。勿論木の小枝を少し切って入れたので、緑の中の真っ白なカサブランカは女王のように高貴できれいです。

カサブランカの花が大好きと言う人が多く居ますが、初めて然も有りなんと思いました。何しろ花びらの色が飽くまでも白いのです。特に緑の葉と組み合わせると白さは際立つようで、夏の清涼剤になります。皆さんも組み合わせて活けてみてください。

 

1999年7月21日 (水) 記

     7月17日 (土) 曇り後晴れ 沼津(大瀬崎海岸) 

ダイヴィングの免許を取りに行く夫とともに大瀬崎海岸に行った。沼津から右に海を見ながら1時間ばかりくねくねと車は走って行く。大瀬崎近くになると、左の山手にみかん畑、そして沼津港が広々と見渡せ思わず息を大きく吸い込む。

目的地に着くと、メッカだけありダイヴィングの人ひと・・・・・・そして、ものすごい数のボンベが散在している。ボンベやウエア−、その他諸々を載せた、手押し車がコンクリ−トの歩道をガラガラと進む。すれ違うのが大変なほどだ。

昼食後、夫は、早速講義が開始され、私は絵が描ける場所を求めてウオッチングに出かけた。突き出た岬を一周するのに1時間ばかりとのことなので歩き始めた。前方に広がる大海原、足元の白いごろごろした石・・・遠くに浮かぶ島影と白いしぶきを上げて走る船。日ごろの生活とかけ離れた景色が心を揺さぶってくる。

水平線が丸く見えるのも、解っていても不思議だ。自然は癒しの力があるというけど、海を見ているだけで心が広々漂って行き安らぎが感じられた。其の為か本来の目的を忘れてしまい、結局山の上から望む海を描くことになってしまった。

次の日、夫は海に入り講習を受けた。ボンベのチェック、部品のつけ方、ウエア−の着方等、海へ入るまえの準備と安全確認が行われた。

海の中に入ると、何やら盛んにうなずいている。ちょっと小さな子供のようだ。家でもあんな素直ならと、変な方に心が飛んだ。しかし、命にかかわること、あの真摯な態度は賞賛に値する。私は、暑さのために木陰に避難する。

夫は其の後20日まで講習は続き無事試験に合格してこの日の夕方6時ごろ帰宅した。

 

1999年7月3日(土) エッセイ 

めざめ という題で書くとしたら!!

めざめとは何と漠然とした言葉だろうか!!自然のめざめ。眠りからのめざめ。その他諸々・・・・それは何物かによって封印されていたものからの開放が目覚めなのだろうか? もしそうであるなら私のはツバメの巣つくりによることになる。

それは去年の連休明けこと。玄関の周りを飛び交っていたツバメが巣作りを始めた。子供のころは確かにツバメが飛んでいたという記憶はある。しかしこの歳までツバメを身近に見ることが無かった。

それが巣作りを観察する機会ができた。人間で言うなら一挙一動が気になり、玄関を細めに開けツバメの姿を追う始末になった。一ヶ月後一センチばかりの茶色い斑点のある卵の殻が落ちていた。私にとってそれは宝石にも等しく貴重に思えた。其の後はワクワク、ソワソワ一週間後雛が大きな口を開けているのを発見、感動する。親鳥は風雨に関係無く、際限無く餌を運んでくる。如何いう訳かドア-を開閉するたびに反応してピイピイなく。糞も可愛いお尻を突き出して決まった場所でするのだ。

ツバメの活動時間は夜明けから日没まで、親鳥は日の出を待たずに巣を後にする。雛達は朝5時には一斉に大きな口を開けピイピイ餌をねだり、昼時はコックリコックリうたたね。寸時を惜しまず生き餌を運んでくる親鳥。雛達は大きな口を開け、親鳥は順番に餌を口の中に投げ込んで行く。うまくキャチしないと、折角の餌は飛んで行ってしまう。見ていると結構受け損ねる事があるので、思わずもったいないと言いそうになる。

六月下旬巣立ちの練習が始まった。羽根を片方づつ広げては羽ばたき閉じる。それも面白いことに巣の淵にお尻を突き出し、広げるので今にも落ちそうになる。その格好がなんとも可愛く、オットット・・・と思わず声がでてしまう。仲間のツバメも巣立ちを促すように巣の周りを旋廻し始めた。親鳥は巣から20センチばかりの所に静止状態で羽ばたき雛達を促す。見事な技だ。人間世界を垣間見る思いがする。

巣立ちの前夜は圧巻だ、15センチぐらいの半円の巣の中に大きくなった雛が5羽折り重なり、親鳥は淵に頭をつけ相似形に寝ていた。そして次の日家族全員で飛び立って行った。三日ばかり巣の周りを危なげな飛び方の子供達を引きつれて飛んでいたが、二度と巣に戻ることなく、何処へか旅立って行ってしまった。

以上前記のツバメの行動が私の目覚めを促した。この人間世界に比しても、劣ることのないツバメの子育て、家作り。枯草と湿った土くれで作る巣は、一級建築士以上の腕前で、根気と、体力がいる。今、私達が忘れてしまっている何か、多分自分の手で何もかも作っていた原始の時代の心か?又は文明の発達の中で置き忘れてきてしまった無償の愛か? とにかく生命のすばらしさと又生きるための過酷さを考えさせられ、カルチャ−ショックのごとく心踊らせられツバメの生態に目覚めたのだ。

                                      終わり。

1999年6月15日(水) 歯医者さんとお花

唯ちゃんの保育が終わった4月から歯医者さんに通いはじめた。大体歯医者さんに限らず、医者と名がつく人は大の苦手、あまりいい思いではないし、見てもらう前から恐怖心で身も心も縮んでいるのでなおさらです。大決心でこの歯医者さんのドア−を開けました。

ところが、待合室は狭いけど音を押さえた音楽が流れ、人も二人(予約制)ぐらいしか待っていないし、受付の女の人は美人、まったく言うことなしの雰囲気だった。

その上フロントの上に大きな花瓶が置かれ、ちょっと素敵な木と花が活けてあるのだ。木と花の丈も規格外でなんと天井についてしまっている。しかし森を連想させるこの生け花には参ってしまった。と言うのは花材のすばらしさと組み合わせの奇異さ(言い過ぎかな!!思いがけない取り合わせに最初はあっけにとられたが不思議なことに変に引かれるのだ)にあまり興味深々で何やかやと問い質すもので、すっかりこの花を買ってくる男の先生に嫌われてしまった。今までの中で一番好きだった花はベル鉄線といい、古代紫の色が何ともいえずきれいで後々まで心引かれ、この時は木と花がぴったりマッチして素敵だった。

さて本題に入り、私の担当医の先生のお話をしたいと思う。実はホ−ムペ−ジの話をして、ぜひここでのことを載せたいといってみたら、だめだよ、どうせ好いこと書いてくれなでしょ!と言われた。全く反対、歯医者さんの事を書きたいなんて初めてのことだ。

何故って私の歯医者さんと言う概念を打ち破った先生だから!! ジ−パンはいて、(それもアメリカンスタイルで)「これ、普段着ですから」なんてにくいこと言うのだ。マスクの上の目は細くって、ちょっとつりあがりぎみ、いつも患者には笑いをこらえている様なやさしい目をする。男性、年齢30代だね多分。

怖がりやの私が、診察台に安心して座れるなんて夢のようだ、痛いと叫べば、ごめんなさいと謝ってくださる。これぞお医者さんだと心の中で納得。医療はメンタルからを実践している先生がいたのだと再度感心してしまった。この医院の先生方を観察するとみんな同じようにやさしい。

それに腕がいいこれが一番大切なところだが、変な言い方だが昔の職人さんのようだ。ちなみに私の無くなってしまった歯を上手に再製してくれた。安心して任せられる先生との出会いは、本当にラッキ−な事だと感謝している。

このことの教訓  与えられたことは自分も与えられるようになろう    以上。

 

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1999年3月23日(火)晴れ  ファション(流行)

ファションについて語れる程調査もしていないし、勉強もしていないので、あくまでも、主観を出ない事を断っておきます。

先ず、髪のファションについて。

何故、茶髪がはやったのか?洋服のファションが行きづまり、行き場の無くなった自己主張は、髪の毛による自己主張へと移っていったのか?其れがカラ−による、ファションとなり、老いも若きもブロンドありレッドありと華やかな髪の毛が日本人のあたまを飾る事になったのかも知れない。顔はいかんせん換える訳にはいかない。この所少し下火になったように感じられるが、私は若い人が、勿論自分の子供も含めてあれよあれよという間に、髪の色が変わって行くのを見ながら何か恐ろしささえを感じてしまった。生まれ持った髪の色は肌の色に一番あった色だと確信しているからだ。何か特別の自己主張のためではなく、単なる綺麗さを求めてのものであるならシンジラレナイ!!

‘99-6-15 続き

忙しさに追われてこの文も流行と同じように最後まで書かないうちに色あせてしまった。新鮮さが売り物なので夏を迎えようとしている今、誰も頭の色に関心を持たなくなってしまったように思う。次に何が多くの人達の心をハットさせ、捕らえるのか楽しみだ。 

 

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1999年2月21日(日)晴れ  青梅マラソンと誕生日

今日は恒例の青梅マラソン、何時もと違うのは加藤さんと一緒に出かけたこと。さらに奥さんとのどかちゃん、みなみちゃんが応援に付いていったことです。私は絵を描いたりテニスに行ったりと優雅な時間を過ごしました。感謝!!感謝!!話は飛びますが、何と可愛いのどかちゃんと家のパパが誕生日が同じ2月21日だったのです。神様も今年の2月21日には、どこのお家に新しい命を誕生させようかな!!なんて悩んでいるかもね。こんなに人間の数が多いのに、同じ日の人は案外少ないもの。今日はパパも可愛いのどかちゃんと記念撮影をしたりご満悦でした。

2月21日のお誕生日の皆さんおめでとうございます。

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1999年1月18日(月) 富士国際花園 

友達の電話(今日アキさん時間有る、天気良いしちょっと遠出のドライブ行かない!!)OK、OK と言うわけで、今日のドライブは決まった。

家を10時半に出発。相原から城山(神奈川県)を抜け、道志道を一路、山中湖に向かった。途中で、雪が残っていたり凍っていたりで谷間の道は、真冬その物だった。山中湖に抜けると富士山が何とも綺麗。湖の正面にあの裾野を引いた姿で現れ、濃紺の山並みに稜線が鋭く白い線を引いている。そして雲がたなびき漂い、裾野の枯れ葉色が太陽の光で燃えあがり、何とも言えない美しさだった。日常生活に追われ見ざる、聞かざる、言わざる、(変な表現ね)の日々を送ってしまう事が多い。其れで、カルチャ−ショックを受けたように感動してしまった。

其れから、河口湖を抜け、139号線で富士国際花園についた。

純和風の造りの入り口、入場料¥1、000 左側に檻が有り、猛禽類のフクロウが飼われていた。そして温室に入ると、あっと驚く何とやら。ベコニアの花花花其れも右も、左も、前も、後ろも、と際限なくベコニアの花が咲いている。感想はと聞かれたら、<スゴイ>此の言葉のみ。原色の洪水でも有る。友達曰く、アキさんに此処を見せたかったのよ!! 何ともものすごい所だ。ベコニアの数10、000株、球根ベコニアと木立ベコニアとそれになぜか紫蘇科の植物も有る。球根ベコニアの花は一見ダリアの花の様だ。あんぐりと口を開けっ放しで首をグルグル回しながら見ていたら、

手にフクロウを止まらせて歩いている従業員に会った。顔を見せてと頼むと、フクロウは嫌々をして顔を背けてしまった。あなた生意気ねと言うと、そっぽを向いてしまう。言っていることが解るらしい、今度、貴女可愛いわねと言うと首をあげてつぶらな瞳で私をじいっと見つめた。優しく頭をなぜたらふわっとした何とも言えない感触がした。ベコニア園に来て、フクロウ(面ふくろう)に魅せられたなんて変な話。帰りにいわたばこ科のストレプトカ−パスを買って、又道志道を通って帰ってきた。帰宅時間PM5時半。今日の収穫は富士山とフクロウでした。



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 1999年1月9日 (土) 晴れ 風強し

部屋には、キリタンサスの花が150本位咲いている。朱鷺色の花は殆ど太陽に向かっている。しかし、花にも我が道を行く者がいて、全然太陽に知らん顔と言うのもある。此の花は何年も前に1本友達から頂いた物だ。うまくいくと年2度(6月と12月)咲く。何時もなら霜が降りる前に咲くので、道行く人が珍しいのでこの花はなんて言うのですか?と問うて行く。実を言うとこの私も2年ばかり前に知ったばかりだ。何ともかわいいこの花は独特の香りがする。何と表現したら良いか、これだけ沢山有ると部屋はかすかに花の匂いに満たされる。大人の匂いとでも表現しておこうかしら!10ヶ月の孫の唯ちゃんに嗅がせたら、1度でひゃっくりが止まったのには吃驚。これには自分ながら可笑しくなってしまった。 思わぬ効用だった。此の可愛い花は我が家の暮れから新年にかけて、寒さを忘れさせてくれる。